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ジャーナル2000-2001

  • 魂の錬金術(3/11/01)
  • 魚座の太陽(2/23/01)
  • 自分のなかの別人(2/17/01)
  • たたってやるって気分(2/10/01)
  • 無条件の愛(2/1/01)
  • 信じるということ(1/17/01)
  • 満たされる経験(1/14/01)
  • 泣くということ(10/29/00)
  • イデアの世界と現世(9/15/00)
  • リジット・モード(9/10/00)
  • うぶすなの神と横浜の街(9/2/00)
  • 私の行きたいところ(8/4/00)
  • インコのルリ#3(8/26/00)
  • インコのルリ#2(7/5/00)
  • インコのルリ(7/2/00)
  • いのちの終わりについて(7/1/00)
  • ジャーナル2001
    ジャーナル2001#2
    魂の錬金術(3/11/01)

    錬金術という言葉が私の先輩や同僚の間で流行っている。1+1=2 にならない世界の話しだ。この物質の世界で暮らしていると、たとえばどうしても食べるものが地球上のすべての人に行き渡らないとか、弱肉強食とかいうところで、いわゆる3次元の問題で人類は壁にブチあたる。個人の生活だってそうだ、自分でつくり出した自分の世界から一歩も出られないと限界を感じることがしばしばだ。錬金術は本来、金には絶対ならないものから金をつくりだす方法。これは魔法ではなく、真実の知恵である。例えば日常の生活に、これを適用してみようと思うと、新しい世界が開けてくる。物質とエネルギーの世界の思い込みのヴェールが、なにかの拍子にちらりと風にそよぐとき、その展望が開ける。禅でいうところの公案みたいなものに近い。

    ここでしいてハウツーはと考えると、今この瞬間に現実の不完全さを、完全に受け入れるということが、一番近いかなぁ。ハラをくくるというか、不完全な人間関係、自分の未熟さ、執着するこころ、見えない未来。すべてをこれでよいのだと受け入れて、すこし自分を引いてみる時、執着や、辛さや、不完全さがすべて幻想だということに気づく感覚。そこには人間として人間の限界に苦しむ自分と同時に、明るく穏やかな光のなかで、ただずむ静かな自分の姿を観察することができる。その時、この地上の限界、痛みから、私は嘘のように解放される。いままで行けないと思っていた所に行けるようになる。すべての答は自分のなかにすでにあったと気づく、自分なかにある光(情報)にすべてが癒される。

    魚座の太陽(2/23/01)

    19日から太陽が魚座に入った。20日の朝目覚めるとき、いつものガイダンスっていうやつが来た。そう、たいがいいつも寝起きなんだよね。頭が働いてない素の状態に、いきなり情報を投げ込まれるような感じ。理性とか常識とかフィルターがまるで役にたたない、だから抵抗できない、疑うことできないって心理状態にならざるおえない。これが起ったら、とにかく面倒とか不可能とか思っても、そっちの道に行かねばならない。ノーアイディアって状態なんだけど、現実の活路をあらゆる工夫、努力をして開かないといけない。ある意味大変なんだな、まったく。

    .........によれば、今の私の慣れ親しんだ日常ってやつを、変える必要があるっていうような内容。魚座は一番最後の星座だから、いままでの何かが終わって、新しく始まる牡羊座への準備期間に突入。なんだかこの1週間新しいことがしたくてしたくて仕方ない。ちょうど、春もやって来たようだしいい感じ。今夜は雨が降るらしい、春へ向かうための恵みの雨。眠っていた命がこの雨で、きっと目を覚ます。

    自分のなかの別人(2/17/01)

    星占学を学ぶと、自分のなかにいる別人の影を見ることができる。別人の影はよく自分と関係する人物としてあらわれる。
    たとえば恋愛によく見られる現象で、「男運が悪い女、女運が悪い男」という人種がいる。彼等のバースチャートでは、必ずといっていいほど自分のなかの男性性または女性性もしくは対人関係をあらわす領域に、超個人的(トランスパーソナル)な星が絡んできている。

    トランスパーソナルな星がもたらす衝動は、個人の生活(日常的な安定)肉体を維持してゆくだけのための、単調なくり返しを根底からひっくり返すような事件として現れたり、日常の牢獄から人びと解放するような芸術として出現したりする。それらは人間を衝撃とともに揺り覚まし、進化に必要な苦痛と全く異質な栄養素を運んでくる。ときには肉体を維持しつづけることが、出来なくなるくらい人生を書き換える。魂を永遠の生と真実へ目覚めさせようとする、遠い星からのメッセージだ。

    いわゆる恋愛という領域で、これが起るとリズ・グリーンの言葉を借りるなら、「関係は楽しい結婚生活とかとはほど遠く、人間関係は真実の自己への内なる旅となり、しばしば激情をともない失望と苦痛によって彩られる」そして柔らかい人間の存在を次なる変容のステージへと導く。

    こおいったバースチャートを持った人々は、事件が起ったとき他人を避難すべきではない。自分のなかの別人が実際の人物として自分の前に出現し、その影を忠実に演じて通りすぎていっただけなのだから。自分をこなごなにした人物は、実は自分が用意周到に企んだ「自分のなかの別人」の幻。

    自分にこのような傾向があるならば、人生の突然の変化を諦めることが必要になるかもしれない。さもなくばこの異界からのエネルギーの安全なはけ口を事前につくってやること。翻弄されるのではなく使いこなしてゆく力を身につけること。

    ここではその破壊がもたらした、異質な栄養素をどうやって消化してゆくかを求められる。そこにこそ進化の可能性が開いている。人としてこの重い肉体をまといながら、いかに変化をなしとげるか、それがこのチャレンジの本来の意味だ。

    たたってやるって気分(2/10/01)

    アニメの「もののけ姫」の中で、おこと主さまが"たたり神"になるになるシーンがあった。最近自分の思いがかなえられないで、"たたり神"になっちゃう人が多い。"たたっちゃう"ってパワーは、生き物の世界で自分を表現しようというポジティブで激しいパワーが、最初の目的からネジレちゃって、ドロドロになるんだろう。命のパワー感と有機的な感じの、裏返し。まあ、"たたっちゃう"気持ちはよくわかるけど、誰かを巻き込んだりとか、ターゲットにしちゃダメだと思う。いわゆる八つ当たりの超スゴイやつ。

    たとえ自分の目的を誰かが邪魔したような事件があったとしても、相手を恨んだりしちゃいけない。自分の傷も広がるし、他の人も傷つけることになるから。なんか不幸なことが起ったとしても、とりあえず自分が関わっているのだから、責任を自分でとることが絶対に必要!それ以上傷を広げるような事態ならば、回避するとか。それでも、巻き込まれたら縁を切って逃げよう。誰かが自分の不幸のメインの原因とわかったならば、その相手と別れればいい。失敗したんだから「諦める」ことが大事。それ以上その相手とネガティブに関わりたいのは、自分に原因ありってこと。2度とそんな嫌なことが起きないようにすることに、エネルギーを注いでさっさと嫌なことは忘れる、そしてサッサと自分の幸せを、立て直すのが吉。

    無条件の愛(2/1/01)

    人は いったい成長の過程でどんな風に、 意識的に無条件の愛を経験するのだろう? 人を愛することができる位 大人になったとき、愛する側の立場で、始めて自分の驚くばかりの気持ちに気つくのだろう。その前は赤ん坊のころの母親のぬくもりとかキスとか、意識する以前の揺りかごの経験になるのだろう。その後の成長過程で、条件つきの愛ばかり経験するうちに、自分の価値を忘れはて、「〜しなくてはならない」とか「〜するべきだ」とかいう牢獄に自分自身をつないでしまう。
    やっと大人に成長したとしても愛される立場では、愛するという経験をしたことがないと、たとえどんなに愛されても、その愛に気つくことができない。自分が経験として知らなければ、人の愛などましてや理解できない。人がくれる愛など条件つきに違いないと、信じられないのだ。人生での大きな罪は、愛さないことだ。人生の価値を色褪せたものにしてしまう、かなりの大罪だ。かつての私もそうだったように、普通そのことに全く気つくことはなく、人生は過ぎてゆく。何年もたって、堅い殻が壊れて自分を支えられないような危機がおとずれるとき、人は罪に気つき、自分自身の人生と同時に、周囲のひとの人生をだいなしにしていたことに懺悔する。後悔の涙は、苦い。

    天使たちは言う、「ほら、私たちの愛を受け取って。あなたが怒りに震えていたり、みじめで地を這うようでも、たとえどんな状態の時でも、私たちはいつもあたなたが呼びさえすれば、あなたの所へ降りてゆく。私たちは、ありのままのあなたを愛している。」
    私は、この甘いささやきに降伏して、恩寵を受け入れる。

    信じるということ(1/17/01)

    私は信じている。イデアの世界「私が存在するこの環境の未来と、すべての命のなかの輝きと進化の可能性」とでもいえばいいのだろうか?もちろん普段は目に見えない神聖なる存在も、そこにはふくまれる。かといって信じていさえすればとか祈りさえすれば、自分の幸せは自分以外の誰か(たとえそれが神聖なる存在だとしても)に保証されるみたいな考え方は好きじゃない。

    私の人生の選択は誰にも左右されない私だけの権利だ。選ぶということは無限に近い選択肢のなかから完璧ではないと知りつつ一つを選び、その条件のなかで できるだけ自分の理想に向かって努力するということだと思う。私にとって"信じるということと祈るということ"は、自分を超えた英知と可能性に心を開き、自分の限界を超えようとすることだ。不確実だし失敗だって当然何回も起るし、それでも信じるイデアの世界を手に入れるため、懲りずにチャレンジし続けることだ。実際かなり怖いしドキドキすることも多い。

    そおいう時は、「天使よ導きをください」と祈りつつ背骨を伸ばして力を入れる、ここを超えて次のステージへゆくと自分に言い聞かせて、自分がきちんと立てるかどうか確認する。渾沌とした現実のなかで、自分のエネルギが何を引き寄せてくるか、しばらくはその現実を観察してみる、失敗と思ったらまたやり直す。

    当然いつもこおゆうリスクの高い生活していると疲れるので、たまにはグタグタ何もせずに過ごすこともある。でもグタグタしすぎると必ずツケが回ってくるので、やらなきゃならないこと行かなきゃならないところには、追い詰められるその前にさっさと行った方が、どうやら人生楽に生きられるようだ。

    満たされる経験(1/14/01)

    傷付いたインナーチャイルドを呼び出して泣くことは、今の私だったらきっと何万回だってできるだろう。でもそれは今の私にとって罠でしかない、カタストロフィをともなう自己憐憫の果てしない繰り返し。自分に傷があることはわかったし、それを受け入れることもできる今、私の課題はこの傷の下にある私のエッセンスを意識的に味わうということだ。傷は入り口をしめす目印にすぎない。マイナスに見えるということは、そこに癒しを受け入れる可能性があるということなのだ。意識的にその癒しの過程を体験することを、この人生のプログラムとして選んだということだ。それは途方もない恵みであり、喜びへと通じるチャレンジだ。人間の限界をもって、この地上に生きるという喜び、そしてそれを経験できることへの感謝に満たされる。最初から私のなかに全ては用意されていて、私はその扉を自分の手で開けることができる。今の私はやっとその事実を理解すると同時に経験しはじめた。

    泣くということ(10/29/00)

    泣くことは体にいい、魂のエステ効果がある。泣いた後は世界がよりソフトでリアルに見えるようになる、私の表情も自然で柔らかく輝きが違う。

    イデアの世界と現世(9/15/00)

    もしなんでも願いのかなうドラエモンのような世界があったとしたら、私たちは何を望むか? そんなものあるはずない!って少し怒ったような自分もいるけど、もし普段目に見えない世界で願いがすべてかなって必要なものすべて与えられたとしたらどうだろうという思考に心を開いてみることにする。.......と悲しい記憶とかかなわなかった夢とか沈殿したオリのような感情のかたまりに苦しくなる。友人がいうように、これが私を現世のさまざまなクビキに縛りつけ私を自分の望む世界にゆかせない障害だとしたら..........

    こないだ自分がときどき観察する世界について、ある友人に話したらスゴク怒りだした.......何??って感じでビックリしちゃっんだけど、あの反応と私も同じものをもっているのかもとフト気ついた。神様いるんだったらこの人生の辛いところ何とかしてよと怒っている。神と自分を分けて考えるようになる。イデアの世界は確かに存在することは感じることはできるけれど、現世にそれをもってくるのは大変だよと泣きたい気分になっちゃう。100%オーケーという世界と50%オーケーの世界、エネルギー不足その他の原因により、その間をつなぐ橋が認識できなくなると、50%の世界しか感知できなくなり苦しくなる。物質の世界のコンディションを自由なスピリットとしての認識も持ちながら、受け入れるのは簡単なことではない。まるで飛べない天使になったみたいな気分だ。全知全能であり自由な存在でありながら、限界をうけいれること。両方真実なのだと認識して生きて行くことは結構ハードだ。だから大抵私はこの事実を認めたくないと思うのだと思う。

    そして物質の世界では全てのものが、光と陰を持つ。光あたる部分があるということは必ず陰になる部分ができるというコンディション。人が放つパールのような輝きと同時に闇の部分を持つ存在という認識は時々やりきれなくなる。この2重構造、澄んだ透明な部分とその底に溜まったオリのような部分。今の私は明らかにこの2重構造のオリの部分にばかりフォーカスして、自分の限界しかみえなくなっている。

    しかし私は同じ現世のポイントにいるのに、自分の背が高くなるように見える景色が全然ちがってくるということを経験として知っている。光と陰の世界を2極とも受け入れてホールドできる認識の拡大した状態。そおいう時は自分が誰で何のために生まれてきたかはっきりと確信できる意識に到達できる。現実の世界で必要なものが不思議と与えられや必要な人が現われる、そしてふと気つくと望む世界が手にはいっているというようなことが起こる。残念なことにこの意識状態をコンスタントに維持することはなかなか難しい。ピアニストや運動選手が常に練習と鍛練に励み、精進してゆくように努力が必要だ。努力を怠ると埃が積もるように意識が曇りだす。そのうちに道に迷って自分が誰だったかをかなり完璧に忘れさる。思い出せない夢のような感じ。

    今私に必要なのはこのオリを掃除してきれいにすること。たぶん千年間以上見ないようにしてきた全てが、今金魚バチかき回したみたいになっちゃってるみたい、苦しいよ〜、これ乗り越えたら結構耐久力つきそうだ。今はシフトしている時なのだ、ヒーリングという言葉がクリエイティブへと移行しつつある。純粋な創造が人生の目的へと変わる時代。

    私のステージは今はひたすら自分のなかにフォーカスする時だ。自分の中の光で自分のなかを照らす必要があり、適切に掃除する必要がある。いらない服を捨てて新しい服を身に着替える時期だ。

    リジット・モード(9/10/00)

    Rigidとは硬直型性格構造のこと。私の経験ではオフィスワークはリジットにならなければ、やって行けないようだ。リジット・モードになると、まず呼吸が浅くなって、肉体の感覚が鈍くなる。これはいわゆる現状の否定モードと呼ばれる、身体的表現だ。厳しい環境に適応するため呼吸を浅くしてストレスを感じる受容器をマヒさせようという体の作戦。タバコをすうこともこれに近い状態をつくる、感じなければやりすごせるということなのだが、なかなかこの作戦はうまく行かない。都会で歩きながらタバコをすうサラリーマンなんてこの典型。

    私の場合まず肩とか首が凝ってきて頭でばかり考えるようになる。でも思考のサーキュレーションは空回りするばかりで、現状を突破できるようなグッドアイデアや力は湧いてこない。体のエネルギーは上半身にかたよるるので、下半身がスカスカになった感じがする。いわゆる足が地についていない状態というやつになる。

    またこのモードで大きな問題はハートと骨盤のエネルギーが分裂するということだ。なんだか体がバラバラになるような感じ。人を愛することが全身でできなくなる。恋愛関係が一番わかりやすいが、セックスが満たされる関係とハートが満たされる関係がバラバラになる。一人の相手で同時にこのふたつの満足を得ることができなくなる。一緒にいて何だか安心するし確かに愛してもいる、けれどセックスはこの人とは満たされない.......。これはリジット・モードの典型的症状だ。

    ではどうすれば......話はそう簡単ではないけれど、まずハートと骨盤を分断している障害は何なのか体を探検してみる。みぞおちのあたりに過去の異性関係もしくは異性の親との関係のトラウマが埋もれていることがある。意識の底に埋められた感情、思考、肉体的硬直の複合体。それを発見できたら呼吸を深くその部分に入れるようにするエネルギーを流してやるとそのうち感情が溶けてきて涙や怒りや怖れさまざまなものが出てくる。かなり苦しい状態なのでここに落ちたくないがために、さまざまな抵抗を試みていたのだ。しばらく苦しいんでエネルギーを流しつづけるとブロックがクリアになるにつれハートと骨盤のつながる感じがわかるようになる。ハートの暖かさのあるセクシャリティだ。

    小さな子供が全身で母親に向ける愛情もこれと同じ暖かさをもっている。それが成長の過程でスムーズに受け入れられれば、子供のセクシャリティは健康に成長する。特に異性の親との間でセクシャリティをともなった愛情表現を否定された子供は、その傷を隠すためにプライドで武装するようになり成長する。大人になって異性との関係はしばしばこの傷を繰り返すような経験になりやすい。もしくはプライドの武装を捨てることができず相手にハートを与える愛し方ができない。またもしくは恋愛を避ける。恋愛で傷つくことはないけれど、本当の暖かさを関係のなかで経験することができない。人を愛することって傷つくことを怖れては手に入らない。

    うぶすなの神と横浜の街(9/2/00)

    私のうぶすなの神は横浜の伊勢山皇大神宮の神様です。私はこの神社の麓の病院でうまれたので、横浜の港のあたりは私にとってシャケが川に還るような気持ちにさせてくれる場所なのです。空気の匂いを記憶しているのかなぁ?懐かしいという感じがする。

    最近の私は職場が近くになったということもあって、この神社によくお参りに行くようになった。それもちょっと怪しくて仕事が終わった夜とか夕暮れ時に、ひっそり一人でお参りするので、当然いつも境内には誰もいない。女ひとり夜の神社参りかぁ、やっぱり私って変わっているなぁと思うけれど、この神様に会いに行くと本当に懐かしい感じがして、ほんと涙が出てきちゃうような感じなんです。

    それと同時に幼いころの記憶のフタが開く感じがする。家族に連れられていった中華街や山手のあたりのレストランやナイトクラブ。懐かしくてでもどこか悲しい感じのする記憶。夜の華やかな街で、何故かひとり寂しいと思っていたらしい。これって私の人生のシンボル的な雰囲気かも......。そしてそこにはいつも見守る超越的な存在がいる、でもその距離は近いようで遠いのか、いつも満たされない空間がある。私のあこがれは果てしなく空へと舞い上がるばかり、地上の私はいつも一人ぼっち、置いていかれちゃったような気分。

    頭ではこれは私が作り出した悲しいイメージに過ぎないって理解している。違う現実を作れる可能性もあるって知っている。なのに現実に自分の悲しいイメージを再現しようってしている自分がいて怖い。

    今日ここで決意しよう、私はこのイメージから自由になると。

    このイメージを繰り返そうとする私の神経回路パターンは私にとっては見えにくいところにある。誰でもそうだろうけれど、自分の一番弱いところにつながる回路は傷ついていたり、もつれていたり、汚かったり、酸素がたりなかったりして見ることがなかなかできない。でも意識的にこのもつれと苦しさのパターンを解き放とうと努力しよう。この同じ場所に立ってなおかつ今と違う景色が見えるように。

    私の行きたいところ(8/4/00)

    私には行きたい所がある。きっとそこは、そこに行くことを諦めたらいけない所で、私はそこに行くために生まれてきたのだ。

    大人になることは、行きたい所に行くことを諦めることだと言う人もいる。夢なんてないっていう人もいる、けれど私は自分の夢をあきらめたら私の場合人生は灰色になる。だから喜びと苦しみもともにその道を歩もう。

    インコのルリ#3(8/26/00)

    インコのルリについて、やはり締めくくる文章をかいておこう。私は結局前回のルリと人間のバトルのあとしばらくして動物病院を辞めた。

    今から思えば当初私はルリにとても同情していたけれど、あの戦いにどちらが良くてどちらかが悪いということは、結局はなかったのだろうと思う。虐待とみえたけれど、ルリ自身も自分は人間と同等と思っていてかなり強情で聞き分けがなかったし、人間の側も同じように譲らないところがあって、どっちもどっちだったというのが真実だったのではと思う。

    私の判断というフィルターを通じて、私の世界感をかなり投影していたと今は思う。こおゆう言い方をすると冷たいようだけれど、私の世界感「世界には必ず弱いものと強いものがいて、強いものは弱いものを虐待する。世界は住みにくいところだ」というイメージをとおして、この事件を見ていたように思う。結局なにが言いたいかというと、「世界の出来事を良い悪いで判断することはできない」ということ「もし2極に別れて問題が展開するならば、どちらもリスペクトにあたいするし、どちらの立場もただそのように その時はあっただけ」というのが真実だろう。だからといって戦争やさまざまな悲劇を野放しにするつもりはないけれど。

    この20世紀から21世紀への移行の時、さまざまな価値観の崩壊、地震や災害、個人のレベルでの人生の崩壊がおこっている。でもそれと同時に最近豊かな可能性の芽が、ひび割れた崩れおちた瓦礫のあいだから顔をだしてきているのが見える。混沌と同時に豊かさを感じる。

    私はこの移行期の困難な時代を選んで生まれてきたと思う、なぜなら自分のさらなる経験と成長の糧を求めて。私は地球という大きなプールに 浮かんでいる沢山のシリンダーの1本のなかにいる自分を見る。それぞれそのシリンダーは自分を写すプリズムのようなもので、そこを通してみる世界は私の内面がそのまま写しだされる。私の信じている世界観で展開される超リアルなある種のイリュージョンだ。

    私はここで今生選んだ課題を経験し学び自分の世界をより自由で美しく完成させるために修行中だと思う。今こころからの願いは自分を写すだけのこのシリンダーから出て、幻ではない世界がどのようなのか本当の姿を見ていられる時間を増やしたいと思う。

    この地球の今を選んで生まれてきた私はどんな顔をしていて?私のフィルターを超えたところから見える世界はどんな風に見えるのか?自分のつくった幻の世界を脱出してよりクリアな世界の景色をながめてみたい。

    インコのルリ#2(7/5/00)

    インコのルリと人間の対決がすごいことになってきた。3日ばかり休暇をとって出勤してみたら、インコのルリが顔が傷だらけになっていた。院長が軟膏をぬった痕がのこっている、どうやら昨日の夜ルリの傷をみつけて手当をしてやったらしい。朝礼で院長が「ルリさまをあんまり殴らないで、かわいそうじゃない」といってた。ヤバイ状態になってきたみたい.......。

    ちょっと留守にしていたら例のバトルモードがエスカレートしてしまったらしい。こうなると虐待という文字がチラつく感じだ。とうとうルリは鎖でつながれることになってしまった。どうみたって今回の事件は始まりはただの喧嘩だったのに、動物の種類が違うというところが普通と違っただけじゃん。やっぱり体の大きさや力をもっていること人間側の問題だろう、でも戦いになると弱いものはいつも割をくうっていう感じだ。私はこの結果に不満だ。だって悪いのはルリだけじゃないもの、人間だって悪いのに鎖につながれるのはルリだけだなんて なんだか理不尽だ。それにルリはそんなに悪い子ではないパソコンにとまるぐらいいいじゃない。

    インコのルリ(7/2/00)

    動物病院では、大きなインコ体長30cm以上(※動物病院のページの院長の飼育日誌を見てね)を事務所で放し飼いにしている。院長が自分の子供と同じように可愛がっていて、毎朝彼の肩にのって一緒に出勤してくる。ものすごく美しいブルーの輝く羽をもっているので、瑠璃色からとってルリという。

    事務所に放し飼いといってもお気に入り定位置があって、なんとデスクトップ型のパソコンのモニターの上が大好きらしいお陰でこのパソコンはルリのフンまみれ、でもちゃんと動いているところがすごい!......電磁波の具合が気持ちいいのかなぁ?.......何故だか大体1日中モニターの上か止り木の上に止まって過ごしている。この子がまた可愛くて、いつもはオトナしいのだけれど、病院のスタッフのなかに異常にこのルリと仲の悪い人間がいて、この2人というか2匹の戦いがはたで見ているとおかしくて仕方ない。お互いに大嫌いらしくこのスタッフがルリの脇を通ると、普段はおとなしいルリがいきなり事務所の中を飛び回る こうなるとなにせ体長30cm以上だから大変な騒ぎになる。ほかのスタッフはまた始まったかと、シバシあきれながら傍観する。

    昨日もこのスタッフの子がパソコンで仕事をしなければならなくて、ルリのお気に入りの定位置をめぐって縄張り争いになった。もうこうなると動物どうしの戦いで........カルテでたたかれて頭にきたルリが、負けるものかとカルテに噛みついて抵抗する。どちらもゆずらないからこの戦いに決着はつかない................。まるで兄弟喧嘩だ、お互いに何かのスポーツを楽しむみたいにしょっちゅうヤリあっている。私はどちらかというとルリちゃん側の味方だ。なぜかというとルリは体が小さいのに自分より大きな人間に抵抗するところがスゴイと思う。鳥だって理不尽と思うことは怒るのよね......人間の世界ではこれが出来なくて、イジメられ子とかノイローゼとかなっちゃう子がいるけれど やっぱり生きていくには自分を主張する強さが必要だよね。昨日のバトルを見ていて、またまたルリちゃんというインコを尊敬した。

    でもこの戦いで笑えるのは院長が部屋に入ってくると、2匹ともピタリと戦いを止めることだ。いわゆるこれは生物の種を超えた兄弟喧嘩なんだよね......。ルリもパソコンにとまるのは禁止されてること知ってやっているし、だから院長が部屋に入ってくるとチンマリと止り木に戻って、何もありませんでしたみたいな顔をして澄ましている、人間側も同じように何もありませんでしたみたいに平然としている。私はその顛末を全部みていたから 両方が考えていることが手にとるようにわかるのでおかしくてしかたない。いい加減喧嘩ばかりしていないで、話し合って仲良くなればいいのにネ。でも私も嫌いな人間とはどうもうまくやれないから人のことは言えないか

    いのちの終わりについて(7/1/00)

    今日、職場の動物病院で、チンチラうさぎが死んだ。動物病院だからこんなことは日常茶飯事で、おとといだってキジバトが朝出勤したら死んでいた。どうも最近動物の死には弱い、涙がとまらなくなる。去年の今ごろジジ(リチャードソン地リス)をなくしているので思いだして泣けてしまう。
    人にペットとして飼われる動物たちは人間たちに無条件の愛を本当にシンプルに、そこにいるだけで教えてくれる。かれらは頭にくる時は噛みついたり吠えたり叫んだりする、甘えたくなったらすりよってくる。やりたいように生きていて、私たち人間からみるとそんな単純な生き方が脅威的にみえたりする。私の人生は多くの時間を動物たちと過ごしてきた、私が頭にきて理不尽な八つ当たりをしたりしても彼等はズット私をしたってくれた。愛するということをたくさん教えてくれた。

    でも彼等の死は私よりも早くきた、必ず別れがきて彼らは土に返ってゆく。人との出会いも同じことだ自分が先か相手が先か、必ずこの重い体のレベルでは別れる時がくる。もう相手をさわることができなくなる痛みだ。

    そして私もいずれこの世界を去るときがくるだろう。これは悲しいことだけれど、同時に新しい次元へのとてつもない飛躍だ。私はそれを知っている、なぜとか聞かれると説明できないけれど、いつもの絶対に疑いが差し挟めない確信をもってこのように感じるとしかいいようがない。

    喜びと完全な自由さを手にいれて空へと舞い上がる、その時がきたら喜んで私は体を手放して、飛び立つだろう、懐かしい自由で美しい世界に還るために。でも私の課題はいまだ終わっていない、だからその時がくるまではできる限り精一杯生きよう。この世界のすばらしさ人の暖かさやおいしい食べ物やすばらしい景色を楽しんで。