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ジャーナル2001
  • 人を愛するということ(9/2/01)
  • 狭くて細い道(7/29/01)
  • 箱根神社(7/24/01)
  • 創造するということ(7/17/01)
  • パワー(7/9/01)
  • very smile & love to you!(6/18/01)
  • 成長のためのプロセス(6/7/01)
  • 厳しい季節(5/31/01)
  • 昔をもう一度思い出して(5/18/01)
  • リニューアルしたい衝動(5/5/01)
  • 新しいなにか(3/26/01)
  • 魂の伴侶(3/24/01)
  • 魂のためにかかる時間(3/17/01)
  • 京都(3/16/01)
  • ジャーナル2000-2001
    ジャーナル2001#2
    人を愛するということ(9/2/01)

    人を愛するとは、本当に難しい。現在私が暮らすこの地球というコンディションで、自分の理想と現実の相手との間の、ギャップを埋めることは、たぶん永遠に不可能。お互いに限界のある存在で、なおかつ理想をあわせもつ・・・・。自分の理想の相手になってもらうために、相手を操ろうとしたり、思いどおりにならない関係に耐えかねて、身を退こうとする。愛とは、人の弱さやあさましさのなかでは、花が咲くことができない。 耐えるとか信じる力が必要になるのだろう。今の私はあきらかに弱い。けれど私はせめて人として間違いや無明に迷おうとも、自分の弱さもあさましさもすべて受け入れて、弱さに潰れるのではなくて、いつも自分に一番正直である道を生きようと思うのだ。

    狭くて細い道(7/29/01)

    私たち、すべての命をもつものは、とてつもないあこがれと理想をもってこの世界に生まれてくる。この理想を、現実に体現するために進化のみちを歩むのだ。

    しかしながら、この物質の世界は重くて不確実なファクターに溢れている。ちょっと意図がズレたりするとたちまち道を見失って、自分が本当は誰だったかわからなくなる。進化の道のりは、狭くて細い道。道などと呼べるものさえないのが事実だ。どこにも行くことができない、どうしようもないという場所から、次の足場を捜して踏み出すのだ。しかも生き延びられる100%の保証などなくである。

    なんて勇気ある選択だろう。このコンディションは、命に共通の条件。ただひとつ頼りになるのは、自分のなかのあこがれと信念だけだ。なんどもなんども挑戦するうちに、道が開けてやがてその道がスタンダードとして、ひろく共有され常識というグリッドの構造に組み込まれる。

    大天使よどうぞ私たちの命がまっとうされますようお導きください。

    箱根神社(7/24/01)

    この間、箱根神社にいったのですが、面白い経験をしたので書いておきます。この神社は奈良時代に建立されました。一番良く知られているところでは「ににぎのみこと」と「このはなさくやひめ」と彼等の息子「ひこほほでのみこと」を祭る社です。ここの元宮は駒ヶ岳山頂の小さな社で、この神社の一番権威のあるかみさま箱根大神(上記の3柱の神様とはまた別)は、白馬にのって山頂に降り立ったという言い伝えがあります。(写真は駒ヶ岳より芦ノ湖をのぞむ、大神さまが見たであろう景色です)

    この神社の設計で面白いのは、まず一般の人間の参道と湖からやってくる竜神のための参道の2つがあるということです。竜神の参道は湖にたつ鳥居から、まっすぐに社の階段をあがる構造になっていて、明確なエネルギーラインができています。この神社の大神さまと竜神の関係が、深いことがわかります。また、杉にかこまれた境内はある種の結界をつくっていて、鳥居の付近ではエアーカーテンみたいな、空気の濃密さが感じられます。

    この神社の雰囲気は大神さまの荘厳な雰囲気とは次元をかくして、可愛らしいエレメンタルの妖精や小鬼というのかな・・・小さな妖怪?みたいなのとか、カラス天狗?とかいった遊び好きの方々で、なかなか賑やかな感じでした。私は大神さまより、アストラルビーイングの方が興味深く、どこかにいないかなと、そわそわ、カラス天狗はどこ?を連発してました。・・・・というのも、以前私が通ったヒーリングスクールの校長先生であるバーバラ・ブレナンがこの神社で、カラス天狗を見つけたという話しを聞いていたので、ぜひ私も逢いたいなぁと思っていたのです。

    ちょうど先生のマイケルがいっしょだったので、私もカラス天狗とのコンタクトを試みました。マイケルいわく、アストラルビーイングとコンタクトするにはハートを使えというので、やってみました。なぜか、あの木の枝に何かがとまっているのは、わかる・・・・という感じで、なぜか涙がでそうになるのでした?不思議だった・・・。マイケルいわくハートは、感情のチャクラだから涙がでるのだよというのですが、人間とのコンタクトのときに感じるような、感動ではないところから、ただただ泣けてくる感じ・・・・。あれは、なんだったのだろう??異界の存在に出会ってしまったからなのでしょうか?・・・・

    結局肉眼で見るような感覚で、バッチリ、カラス天狗は見れませんでした。もともと、オーラとかは見えても天使とかビーイング系は、いまだはっきり見たと思ったことがないので・・・・まあ、当然といえば当然ですが。さあ、帰ろうかと思って境内から階段をおりたところで、なにやらカラスの泣き声。マイケルは、君のロンギング(逢いたいというあこがれ)で、私に見える形で彼等がやってきたのだよというのです!そおいえば、さっきまでカラスの気配はなかったものなぁ・・・ホぅ・・・・・。と納得するやいなや、カラス君たちはまたお山の奥に去っていったのでした。ますます、不思議。

    さっきのマイケルのいうような形で、存在を感じようとすると、いるわいるわゾロゾロととにかくこの神社にはいっぱいいました。アストラルパレードができそうです。最後の鳥居を抜けて、さようなら〜と手を振ると、またまたカラスの合唱が・・・・あら、ホントにどうも・・・また、来ます...。

    創造するということ(7/17/01)

    創造するということは世界中から必要なエレメントを集めてきて、自分がつくりたい現実をつくり出すということ。何かイージーオーダー的なものとか、大きくて魅力的なものが、天から降ってきて自分がそこにスッポリはまって、ああ幸せというのではない。

    社会の常識とか、一般的な傾向とか、自分で作った自分の限界なんかは、ひとまず横においておこう。「私は何をつくりたと思っているのか?」あくまでも自分が中心、主人公でイメージは自由自在。欲しい現実は自分でつくりだす。神様がいて、空にはお星さまが輝いていて、私は地上の非力な人間ではない。私はあこがれを持っていて、そのあこがれのイメージどおりの世界を、まず小さな私からつくることができるのだ。

    NEEDSが、DEMANDをつくりだしSEEKINGにいたるパターンは、うまくゆかない。
    エネルギーを外にむけるのではなくて、内に方向をかえるというのか・・・・

    うまくゆく方法、NEEDSはCREATIONへと導かれて、FULFILLMENTにいたるのでした。
    私のドラゴンヘッドでおこった、日食のエネルギーが、やっと実感をもって来た感じがする。新しいアクエリアスの時代のイメージ、改めて個人化するということ。

    パワー(7/9/01)

    パワーとはこの世界を生きるのに大切なもの。ただどうなのだろう・・・名誉、お金、肉体の強さなどは、欠かせないものでありながら、たまにそれがなくなるときだってある条件だ。パワーに恵まれる時、まわりの人はその力に惹かれてその人を大切にする・・・けれど、そこにはいつも「パワーがあれば、愛される」という力偏重の指向がないかしら・・・・。

    本当は何もなくても、命がそこにあるだけで愛されたいと、人は望むもの。無条件に愛されたいもの。

    very smile & love to you!(6/18/01)

    いよいよ今度の新月6/21日で、21世紀のイメージが展開しはじめる。水瓶座の時代、プラトン歴2156年を経て魚座の時代が終わり、水瓶座の時代がやってきた。魚座時代のピラミッドの構造は終わるだろう。中央集権、政治、企業のような集団が、やがて時代の波に消えてゆく。新しい個人の時代、インターネットのように個々のポイントが同等のレベルで存在する構造。

    人々の個性が、本当の自由を手に入れて花開く時代と感じる。今までは、序列という言葉の基準で、上下の棚に割り振られるようだったのに、これからは違うのだ。さまざまな個性が、それぞれのポジションで価値を持つようになる。人間たちだけに限らず、すべての命、生きとし生けるものたちに、同じような変化が起る。隠れていたものも姿を表し、他のものたちと同等の評価を与えられる。私には、この感じはなぜか嬉しい。愛らしい同胞に、親愛の情を覚える。

    みんなへ
    あらためて、こんにちわ、どうぞよろしく。very smile & love to you!

    成長のためのプロセス(6/7/01)

    人格的な成長に終わりはない。これは、ゆるぎない事実。どんなマスターであろうと、必ず師匠がいる、その師匠には、また師匠がいるといったところだ。人格的成長のプロセス(課程)において、人は「ああ、これで自分の到達する目標はクリアした。」と思う瞬間がある。しかし、階段を一つ昇れば、また次ぎの階段が、見えてくるもので、成長のプロセスに終わりはない。疲れている時に考えると、気が遠くなりそうだが、やがてその成長そのものが、ただひたすらの喜びであると感じられるようになるのだ。

    この過程は、螺旋の階段のようだ、同じようなテーマで繰り返し繰り返し、課題は訪れる。時間軸の推移にともなって、プロセスの深さや幅は変わってくるが、基本的なテーマは同じ。そして、その課題も隈無くクリアできるようになると、テーマが変わる。

    私は、「私はもう悟ったから、ノープロブレム」という人間を信用しない。人間の生を生きていてノープロブレムということは、不可能だから。それは単純に自分の問題を見ないようにしているか、時が訪れていないだけだろうと判断する。

    成長のプロセスを意図的に速めることは、可能である。しかし、時をかけることを承諾しなければ、ならないだろう。ひとつのテーマを全身全霊で、常に高いアベレージで気づいていられるということは、通常非常に難しい。人の能力を100%に近く使いきることは、現代の普通の市民では、ほとんどが到達できない境地であろう。どんなにクリアだと思ったとして、50%がだいたい平均値かという感じだ。

    今朝もふと考えたが、以前私の師匠が言った言葉の意味が、3年もたった今、やっと頭と心と体で理解できたと感じた。情報を本で読む、教師に教えてもらう、しかしその意味を全身で理解したと思えるようになることは、死角に位置する問題だったりすると、なかなか難しい。相手の言っている意味が、腑に落ちないのだ。"Do you really understand?"とよく言われたが、本当にunderstandするのは、難しいことである。心底正直になろうとすると、問題のある部分の思考回路が、システムダウンするみたいになる。頭が白くなると、いうでしょ、まさにそんな感じ。これは、一度経験した人でないと、わかんないだろうなぁ。

    だから私は謙虚でいようと思う。もっとも優れたグルは、結構普通にの人に見えるものだ。ダライラマなんか典型的で、あのおじさんという感じだが、彼は間違いなく真実を深く知っている。けれど、そのことで自分を飾ろうとか、権力を掴もうという執着を越えている。ただ、いい味のあるおやじにしか見えない。

    禅の十牛図の入廛垂手(にってんすいしゅ)みたいだ。「廛(てん)とは街の意味、町のなかに入って救いの手をさしのべる、人の良さそうなおじさんの図」これが十番目の人間の最高の進化の姿とされている。私はこの十牛図でいったら、今はちょうど牛を見つけたばかり、見牛(けんぎゅう)から得牛(とくぎゅう)、第3から第4フェーズにさしかかったくらいだ。見牛とは「自分は人生で何(牛)を探し求めているかに気づく」こと、得牛とは「その探し求めていたもの(牛)を捕まえる」ということだ。

    厳しい季節(5/31/01)

    今、私は厳しい季節にいるのかも?昨日改めて自分のホロスコープチャートの経過をみてみたんだけれど、人生のなかでも特に厳しい季節に突入しているらしい。まさに試練のときなんだって、この時期を乗り越えると人生の大きな山、越えることになるみたいで、あと当分楽らしい、占星術の先生が言っていた。嫌だけれどしかたないもん、ガンバルしか。これは誰も迎える人生のある季節なんだから。

    でも、個人的な日常はゆっくりと動いている、新しい夢の物色も始めたし。得意のお祈りしておこう、どうぞ激し過ぎませんように、あんまり痛い目に会いませんように。

    今日、庭にアジサイを発見。去年あまり花をつけなかったので、肥料をしっかりあげたら今年はちゃんと花をつけました。季節は、巡るもの、いい時もあれば悪い時もあるさ。

    昔をもう一度思い出して(5/18/01)

    このところ妙な忙しさ?に追われるような暮らしで、自分が誰だかわからないと感じることが多くなった。自分の人生の意図をちょっと見失った感じがする。去年ヒーリングスクールを卒業するときに書いたペーパーを、ふと思い出して読んでみた。あの時確信していたこと、到達した意識の状態、薄れていた記憶が鮮明に蘇った。このぺーパーは私のこれからの、まさに指針なのだと思う。だから、その一部をこのページに残して公開しようと思う。これからの私と、このページの読者のために。

    すべての癒しを求める命たちへ

    私たちすべての命は、癒しの道の途中にいる。不完全に見える現実のなかでも、落ちこぼれることなく確実にその道にのっている。私はあるとき、その道からまっ逆さまに夜の暗い海に落ちた。夜の海は何も見えないし、どこへ泳いでいってよいかもわからない。足の下に、もしかしたらサメとか、泳いできたらどうしようと恐怖に震えた。ようやっと浮いているだけの状態で、やがて夜が明けて朝がきた。光りがどの方向へ、泳いでいけばいいか教えてくれた。私は、今必死で泳いでいる、もう少しで陸地にたどりつける。

    暗さには、終わりがある。通り過ぎて振り返ると、暗さは幻だったとわかる。癒しのプロセスは螺旋の階段を昇るように、何度も何度も同じような問題に、つきあたり抜けてゆくことになる。ときどき自分のすべてが、崩れ落ちてコナゴナになるようなことも起るときはあるだろう。でも大丈夫、必ず潜り抜けられる。それが最悪、死んでしまうようなことになったとしても、神さまの間違いで網から漏れたのではない。私たちは間違いなく、祝福され愛されている。ただ普段は、それに全く気付かない時があるというだけだ。私たちが、その事実を受け入れると決めて、愛するとき、恩寵は堰を切ったように私たちに流れこむ。

    ずっと前に先生が教えてくれた、イスラエルの詩人、ルミの詩。
    Cry out! Don't be stolid and silent with your pain.
    声をあげて泣きなさい!凍り付いて、痛みに黙り込むのではなく
    Lament! And let the milk of loving flow into you.
    嘆きなさい!そおすれば、愛のあまいミルクがあなたに流れこむ
    Rumi
    ルミ

    そして私からのメッセージ
    I love you.

    *2000年4月ヒーリングスクール卒業のためのペーパーより抜粋

    リニューアルしたい衝動(5/5/01)

    久しぶりの日記、4月中はどうやら新しい変化に体をならすのに精一杯で、ページの更新どころではなかったみたい。結局なにもほとんど記事を書けなかったし。今年のサイクルはホロスコープ的に見ると、次の10年のサイクルのちょうどはじまりの年にあたる。私は去年の誕生日から火星期にはいっている、この時期は太陽期で学んだ「自分は何のために生まれてきたか」というテーマを、意識的に社会に表現してゆくタームになる。

    私の火星は蟹座にあるため、ごくごく限られた人々、家族や友人たちのコミュニティのなかで、恐ろしく我がままなくらい自己主張するらしい・・・・・・でも、この時期にそのパワーを使い切らないと、後々よろしくないようなので、自分のやりたいようにやらせて頂くしかないようだ。

    どうも2月くらいから、リニューアルしたいしたいと思っていたが、5月にはいっていよいよ本格的に行動開始という感じがする。とにかく私の生活の主要なものを新しくし始めた。新しいテーマに沿うように、環境を変えなくてはいけない。パソコンやインテリアや人間関係まで、とにかく変えようとしている。こうなると私は、ついてゆくしかないと思って諦める。いくら今までが、馴染んでいて手放すには惜しいと思っても、変化を受け入れないと、私は淀んで腐っていってしまうから。

    新しいなにか(3/26/01)

    昨日はおひつじ座の新月。なぜか腰痛がもどってきた?なぜ?でも気持ちはすごくウキウキして、無性に嬉しい......。この嬉しさ何かきっと新しいものをチャージしたんだろうけれど、手放しに喜ぶと後で、やっぱり止めとけばよかったとか思うから、とりあえず何が生まれてくるか様子を見よう。人間万事塞翁が馬なのだとわかってはいるけれど、結果的に常識でいうところの喜びごとはそのまま受け取れるが、悲惨なことはいくら進化の足しにはなっても、やっぱりああぁと思ってしまうなぁ。でもとにかくこの新しいはじまりの感じを切実に感じる、新しいこと始めたくて、嬉しくてしかたない。きっといいことがあるって思えるからスバラしい。

    人の一生は収縮と拡張を繰り返し、果てしなく変化し続ける。私はただその波を勇気をもって、受け入れて受け流す以外、結局はできないのだと思う。でも、すくなくとも今は不平も不満もなく、感謝でこのサイクルを受け取れるこれはまったく、まさにメデたいこと。神様ありがとう。

    ちょっと話しは前にもどるが、伴侶を捜す旅もこの人生では多分ズット不完全なままでつづくのだろう。そして、相手は自分を写してくれる鏡となり、心のなかのプロセスが完了した段階で、さよならがくる。私は、たぶんたったひとりぼっちで、この世に転生したんだろうけれど、すくなくとも今この瞬間は全然ひとりだってこと寂しくない。ひとりだって確実に認識できるからこそ、相手を本当に大切な命としてハートに抱くことができる。

    ふたりの関係が難しいものだとしても、魂が選びたいと思えば、その関係を選ぶだろうし、そんなことは人間のエゴのレベルでの話し、良く見えることと悪く見えること、結局どちらでもオーケーなのだ。今の私は少なくともどちらでも受け取ろうと、ハートが開いている。本当の勇気を感じられるから、これでいいと思う。執着はしない、将来こうなったらいいなぁとか人間だから思うけれど、それもできるだけ手放して、今はこの恩寵を受け取ろう、命のよろこびをありがとう。

    魂の伴侶(3/24/01)

    そうだったの......と昨晩フト納得した。誰しも生涯、理想の伴侶をさがし求めるものだが、ヒョットして本当に運命の人とか、自分の魂の片割れなどという人物は実在しないのではないかと思っていたけれど、どうやらそおらしい。この間届いたユイ・ワンのニュースレターにも書いてあったけれど、いわゆるツイン・フレイムとかソウル・メイトという、自分の魂の片割れという人物は同じ物質次元に同時期に転生しないらしい。やっぱりね.......。

    ツイン・フレイムとかソウル・メイトという人物は、以前から思っていたが私の心のなかにいるらしい。私はその人物のイメージを現実の男性に写してみて、重なるところを持ち合わせる人に恋をしている。でも、その人は現実の人間で決して私の理想を100%体現する人ではない。当然、100%満たされたいと彼に要求することは無理なこと。また、何をどおリクエストすれば満足できるのかも、今いちキチンと伝えられるような言葉が思いつかない。いずれの期待も的はずれに感じるのだ、この地上に同じ人間の立場で、満たせる他人がいるとは思えない。結局自分を満たすのは自分のなかの、充実でしかなく(ユイ・ワンいわく、聖盃:理想的な男女のエネルギーの完璧な統一モデル)自分のなかの、エクスタシーをいかに追いかけるかしか、道はいずれにせよないのだということらしい。

    私があこがれてやまない私の中の理想の男性性、風の神の系譜をそのエッセンスに持つ存在。常に流れてやまない偉大なる変化、夜の空に流れる七色の雲、空高く優雅に舞う姿。私はこの生涯を通じて、この片割れにいずれ出会うために、この地上を去るその約束の時に恋こがれながら暮らすのだ。

    魂のためにかかる時間(3/17/01)

    どうやら最近は心理的変容と成長にもインスタントやハウツーものが喜ばれるらしい。まあ、実際私もむかしは何か自分をかえる明確なメソゾ(簡単な方法やわかりやすい公式みたいなもの)があるに違いない!とかなり期待していたこともあったし、今でも実際そおいう方法があれば便利だなぁと思うときもある。しかし人生はエゴの思うように流れることはなし、思うようにコントロールできるような方法論もない、だからこそチャレンジしがいがあるともいえるのだろう。

    魂には、「依存的な関係は人生を害するから、そこから抜けるための方法とか」「さまざまな中毒の原因は子供時代のトラウマに原因がある、そこから脱出するためのハウツーはウンヌン.......」とか機械的な方法論は通用しない。魂のもとめるものは、それがたとえ世の常識でいう不健康とか、認められないものであっても、個人にとってはそれが渇望であり人生の生き甲斐であったりすることがある。ネガティブであろうとも、そこに喜びがあるから人はそれを渇望するのだ。常識というものは平均的にみてマットウである意識だということだけ、単に常識であるということでしかない。

    魂が変容するためには、たとえ常識でいうところのネガティブな状況や失敗であっても、自分が渇望するものであるならばハマリきってみることが栄養になるように思われる。それが人生のすべてを破壊してしまうというのなら問題で、もう少し軌道修正する必要はあるが..........また流されるままに流れればいいというわけでもないし、自分を罪悪感でひきずり降ろすことも役にはたたない。バランスをたもって状況をコントロールしながら、どんな自分も押し殺すことなく日々の暮らしを送るということが、達人の技である。

    自分の器を広く強く保ち『待つ』ことができれば、傷と見えていたものもやがて、そのポジティブなもともとのエッセンスへと変容し、本当に血となり肉となる。見せかけの問題解決や逃避は、一見部屋は片付いたようにみえるが、床の底で魂は窒息してしまうのだ。真実の変容にはタイミングと必要な時間をかけることが大切だ。必要な時間は一瞬の場合もあるし、何生もかかることもある。

    京都(3/16/01)

    このあいだ、ちょうど雛祭りのころ京都にいってきました。
    今回は地元在住の友人が案内してくれたので、随分通なシブイ感じになりました。そのなかでも印象的だったのは詩仙堂という小さな庵です。まあこの歴史的な背景はガイドブックに譲ることにして、ここの雰囲気はなんというのか...........、四季とともに移り変わる手入れの行き届いた庭や庵は、まさに小宇宙。それもとても日本っぽい感じ、そんなに有名な庭というわけでもないし、庵だって小さな質素なものなのですが、普段着の古き良き日本がそこにはある。その空間ですべてが簡潔していて、バランスしている、水晶の丸い球体を思わせるようなマロヤカさと穏やかさがあるのです。獅子おどしの音が響き、整然としたいわゆるオーラの第5レベルの感じなのだけれど、それでいて決して冷たさや厳格さを感じさせない、優しさと人の息使いがあるのです。この空間は、まさに日本人にしか表現できないもので、庵や庭の縮尺にいたるまで、日本人のためのサイズと質感、日本人の私たちにしか理解できない感覚がありました。(きっとヨーロッパの空間を日本人である私たちは、本当に理解することはできないのだろうなぁとも思いましたが.........)

    今回はアメリカを経験した後ということもあってか、日本に生まれてこの感じが分かる人間でよかったなぁとシミジミ思いました。玄米ご飯と身欠きニシンの煮付けに味噌汁、お新香といったご飯を食べたような感じ。ジワーっと満たされる、いい感じです。現代のインターネットの時代に古き良き伝統が継承されつづける空間が同時に存在する、古いものでありながら、全く現代でも通用する普遍的な文化と知恵を受け継ぐ町。京都に日本を再発見しました。

    余談ですが心理学をアメリカで学んできて、日本はその分野では圧倒的に後進国だと思っていましたが、自国の優れた文化の粋を観察して、日本には日本人の方法がきっとあるに違いないと思いをあらたにしました。かねてから心理プロセスなどアメリカの方法論が、どうしても日本人に馴染まないものを感じているのですが、もしかすると古き日本の伝統といわれるカテゴリーのなかに、私の捜す方法論があるやもしれぬと思いました。もしかすると自分に一番あったヒーリングの旅は、自分の足下にひっそりと穏やかに埋もれているのかもしれません。それ見分けられるまで成長するために、私は今まで遠くまで出掛けていたのかも........。